アメリカ人って田舎者なんだなぁ、と思ってしまう瞬間

それは、旅先でお互い、
どこから来たのか、という話題になって、
国名ではなくて州名
相手の口から出てきたとき。





私の場合、米国の人は、
外国人の中でも、特に接する率が高いから余計に、
見たくない部分も見えてくるのかもしれませんが。


でも旅先で出会う外国人の割合としては、
米国人がずば抜けて高いことはありません。




米国から来た人で、
「どこから来たの?」の問いに
国名ではなく州名、
あるいは都市名で答える人の割合は、
私独自の統計で8割程度。

でもそれは、かなり抑え気味の数字です。

だって、私が旅先で出会った米国人なんて
せいぜい数十人ですから。




ここで、読んでくださっているあなたに質問です。

旅の途中で私が出会った
たった数十人の米国人に限った話ではありますが。

その中で「どこから来たのか」の問いに
国名で答えた米国人は、何人くらいいたと思いますか。










正解は

「0人」

です。




それでは反対に、私が旅先で出会った
米国人以外の外国人で、
どこから来たのかを国名以外で答えた人は
どのくらいいたかというと・・・。


これも「0人」




この比率を見ているとだんだん、

「おやおや・・・?」

という、何かむず痒いような感覚が、
背後から忍び寄っては来ませんか。




私自身は日本に住んでいる日本人で、
米国で作られるたくさんの
映画やドラマに接する機会が十分にあって、
米国内の地名には
他の外国の人より馴染んでいる方だという自負はあります。

だから確かに、どんなに認知度の低い
州(state)の名前を言われても
場合によっては郡(county)の名前を持ち出されても、
戸惑うことはありません。




けれど、「どこから来たの?」という話題になって
「カリフォルニア」とか「ニューヨーク」とかと
言われるたびに、

(うーん、残念。)

と、つい感じてしまうのを
止めることもできません。




だって、それって無意識のうちに、

「ウチ(自分の国)のことはみんな知ってるでしょ。」

って思っているからこそかなぁ、としか
考えられませんから。






今度はあなたが外国に旅行中、
いろんな国からの旅行者が集まって、
英語で話をしている場面を
想像してみてください。

場所はオーストラリア。
西海岸の北の街、エクスマウスの
テントを安く張れるキャンプサイトで、
夕食後、焚き火を囲んで歓談しています。


「みんなどこから来たの?」という話題になって。

「私はフィンランド。」
「僕はドイツ。」
「フィリピン。」
「タイ。」
「京都。」

(き、京都?) 

ね、ねぇ、今この人、「京都」って言った?
言ったよね? 聞き間違いじゃないよね?

と、自分の耳を疑いたくなるほど
びっくりするとは思いませんか。




それぞれが国名で答えている中で、
同じ日本人が都道府県名を使ったりしたら、

「それは確かに世界的に
 広く知られている地名かもしれない
けど、
 普通、国の名前で答えない?」

と、
ギョッとしてしまいますよね。




私だったら、

「あえて『あの』京都から来たことを強調して
 話題を提供しているのかもしれないけれど、
 その地名を知らない人もいるかもしれないって
 ちょっとは考えないのかな。」

と思って、
自分のことではないけれど
同じ日本人として恥ずかしい気持ちになると思います。




そして、焦りますね。

だって、その後、自分はどう答えるんだ、って
考えてみてください。




私だったら、顔が引きつりそうになるのを
懸命に抑えながら、

「私日本から来たの。
 (I’m from Japan, too.)」

と言うのが精一杯だと思います。






旅先で一対一で「どこから来ましたか。」
と話すときも基準は一緒で、
まずは国名で答えるのが一般的です。

それは、相手に恥ずかしい思いは
できるだけさせない、という
最低限の配慮でもありますよね。

さすがに国名を言われて認識できなかったら、
一般教養に欠いている自分が
恥ずかしい立場ですから。


でも、同じ国の人ならいざしらず、
他の国の人に自国の都道府県や州、
地方の名前を知っていることなど
期待する方が恥ずかしい
ことです。




だって小学生じゃあるまいし。
他国の人に自国の都道府県名を使うなんて、

『オレの知ってる世界(こと)を
 みんなが知ってて当然。』

って感覚ですよね。

『山梨だよ、山梨。
 なんだ、知らねーの?
 富士山のあるところだよ。』

・・・みたいな。




国の中の地名や、その場所に由来する話は、
「日本のどこから来たの?」
と話題が移ってはじめて話すことであって、
それは例え、世界的に知名度がかなり高い、
京都であれ東京であれ、同じことですよね。




自分たちの国について、

「世界一大きい」
「世界一強い」
「世界一金持ち」
「とにかく世界一」

など何を思おうと勝手だけれど、
こちらも同じ感覚で当然、
という振る舞いをされると、

「あぁ、狭い世界しか見ていないんだなぁ。」

と、つい感じてしまいます。




だいたい、自分たちのことを
アメリカ人、と呼ぶ感覚も、
私には理解しがたいのですが、
そのことを話し出すと話題が随分それるので
今はやめておきます。




とにかく米国人には、

「自分たちが世界の中心」

と考えている人が多くて、
それは多くの面で間違いではないのだろうけれど、
わざわざ主張されると、
幼稚だなぁ、と思ってしまいます。




「どこから来たの?」の問いに
国名ではなく州名で答える、という言動も、
私には上に書いた、

「自分の国が世界の中心」
「自分の国のことはみんなが知っていて当然」

という感覚のあらわれと見えるので、
つい、

あなたの見ている世界が
 世界のすべてではないよ
。」

自国のことを他の国の人も
 知っていて当然という振る舞いは、
 見識が狭いことを露呈するようなものだよ
。」

と、考えてしまうわけです。






外国の人と接するときには、
自分の国と相手の国との
間にある違いに注意をして、
失礼のないように、
恥ずかしいことのないように、
と、気をつけますよね。


人から見えているほどには、
自分のことは見えていないもの
なのだと
米国の人に州名を言われるたびに
つくづく感じます。




外国の人と接するときに
恥ずかしくない言動をとれるかどうか
は、
実は外国人と接している瞬間ではなく、
普段からの自分のものの見方や、
心構えに左右される
のかもしれません。


米国人が「どこから来たの?」の問いに
国名以外で答えるたびに、
自分にはおごったところがないだろうか、
自分のことを客観的に見ることができているだろうか、
と、確認せずにはいられない衝動にかられるのでした。

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